ショーケンが、逝った。
俳優の萩原健一さんである。昭和25年7月26日生まれの彼は、平成31年3月26日午前、 68歳にして静かに息を引き取った(ご家族のお話)。 ”平成”が終わりを告げるまで、あと35日だった。
10万人に1~2人と非常に珍しい「消化管間質腫瘍(GIST)」という種のがんで、闘病期間は診断から「8年」にも及んでいたらしい。
彼を「昭和の一大スター」と呼ぶ人がいるが、私はその黄金期とも言える輝かしい時代を知らない。むしろ私の親世代が「ショーケンはカッコよかった。」そう言っているぐらいで、私自身はドラマの脇役としてすごく良い感じの”シブいおやじ”くらいのイメージしか持ち合わせていなかった。
昭和のど真ん中を全力で青春していた世代にとっては(特に男子)、憧れの的であったのだろうと、死を迎えた後のニュース番組などの映像を見て思い知らされる。
生前彼と関わった著名人の多くがその死を悔やむとともに、寂しさを感じずにはいられないといった無念のコメントを出していた一方で、中には、彼の”生き様”が引き起こした数々の問題行動等も含め、それを懐かしむ声も聴かれた。
どれだけ問題を起こしても、彼への仕事の依頼が無くなることはなかった。
そう。彼は多くの人から”愛されていた”のだ。
そんな彼の若かりし頃のカリスマ性を醸し出させていた、その”性分”、”生き様”に触れるにつけ、もう一つ、私には考えさせられることがあった。
それは、「闘病」そして「死」との向き合い方についてである。
「令和」という新たな時代を迎えようとしている今、若年層を中心としたコミュニケーションツールの主役がSNSであることは疑う余地もない。
そして、世間一般の出来事をほぼリアルタイムで知ることができる「ネットニュース」の利便性は、特に仕事やビジネスの点においては、それなしでの活動というものが考えられなくなってしまう程である。
そんな「SNS」や「ネットニュース」の世界で、最近よく散見されるのが、芸能人や著名人が「病気にかかった。(罹患)」「病と闘っている。(闘病)」といった類の記事だ。
私はなぜか、この手の記事にあまり良い気持ちがしない。
というよりも、「その”目的”がよく解らない。」と言った方が正しいだろうか。これらの記事を発信している人たちの”目的”とはいったい何なのだろう。
「応援してほしい。」「(これまで頻繁にメディア出演していた自分が突然いなくなるという)世間の心配を少しでも払拭しておきたい。」「ありのままの姿をファンに伝えたい。」
そんなところだろうか。
嘘偽りなく、私自身も皆さんと同じように、不幸にも大小問わず病にかかってしまったという事実に対しては、「なんでこの人がそんな目に遭わなければならないんだろう。かわいそうに。」「頑張って元気になって欲しい。」そう感じる。
でも、その一方で、特に本人やその家族がそれを発信しているものなどを見た際には、少し違和感を覚えてしまうという部分も、これまた正直言って、ある。
「何のために公表しているのだろう。」
本人や家族ではなく、マスコミを中心とした取り巻きがその関心度の高さからそういった状況を追いかけるということは、倫理観や正義感を抜きにして考えれば、解らなくもない。追い掛けている方も、おそらく仕事と割り切ってやっているのであろう。
だが、その張本人が、はたまたその身内がそれを大々的に公表する意味が私には理解できないのだ。
中には、ほんの些細な病院通いでさえも、さも大ごとになりそうかのように、半ばもったいぶったような表現まで用いてSNSに書き込んでいるような人たちもいる(特に芸能人)。
「それも仕事のうち。」と言ってしまえばそれまでだし、「嫌なら見なけりゃ良い。」と言われてしまえば「おっしゃる通りです。」と言うより他ないのだが、世の中には、大変重い病気と闘いながらも、その辛さや苦しい姿をひた隠しにして、歯を食いしばり、日々を生き抜いている人たちがいる。
誤解を恐れず言えば、軽い病状でも「お涙ちょうだい。」とばかりに、軽々に世論をあおるような発信をしている人たちというのは、恥ずかしくはないのだろうか。
SNSによるそうした些細な事の発信も、もはや大切な事だと肯定すべき時代なのであろうか。
そう感じてしまう自分は、やっぱり何かおかしいのだろうか。おそらく間違っているのだろう。
正直、分からない。
もしもその病気が仕事に差し支えるような重いものなのであれば、もちろん身体のことを最優先に考えて、療養に入る等の対応について関係者に状況を報告すれば済む話だし、家族もその事実を公にする必要性・理由などは特に何もないはずだ。
自分の身体が自由が効かない状態になってしまったことによって迷惑を掛けてしまう可能性のある人たちに、ありのままを話せば良いだけのことなのではないだろうか。
私の考えは、やはり、間違っているのだろうか。
ショーケンは、8年間も闘った。闘っていた。世の知れぬ間に。
私がショーケンの死から何を感じたのか、もうお察しいただけただろう。
想像の域を出ないものではあるのだが、彼のその闘う姿勢に、男として胸を打つものを感じるのは、私だけだろうか。
みなまで言うまい。
ショーケンの奥様もまた、彼の意思によってその本当の状態をひた隠しにし、あえて元気な姿をSNSにアップされるなど、昨今の芸能人のそれとは真逆の行動を取られている。
おそらくショーケン本人も、そして奥様も、長くて辛い闘病生活であっただろうが、それを一切世に感じさせることはなく、死を迎えるその瞬間まで静かに闘っておられた。
間違ってもこれを「嘘をついていた。」などと断罪してはいけない。少なくとも私はそう思う。
私は、ショーケンの最期を美化しようとこの記事を書いているわけではない。
今回はただ彼の死によって率直に感じたことを書いたまでだ。
そもそも私は彼の熱烈なファンでもなければ、彼の”カッコよさ”も知らない。数々の”粗相”を含む、その全盛期の輝かしい姿を、肌で感じたことはないのだ。
ただ、それでも一つ確実に言えることがある。それは、
「やっぱりショーケンはカッコよかった。」